【勝田班月報・7803】
《勝田報告》
さようなら号:
 長い間続いた研究月報も、今号でいよいよ廃刊です。忙しいなかを皆さんよく書いて下さいましたね。大変な努力でしたが、お互の研究のうえに裨益するところは大きかったと思います。この号で勝田班は事実上解散です。これでも癌研究班の内では永く続いた方です。 みなさん、よくやって下さいましたね。仕事というものは、やはり適当なところで一区切をつけるべきものでしょう。また若い研究者たちが力を合わせてその上のStepに進んでもらいたいものです。
 思い返してみますと、1959年に初めて班を申請したところ、その内の3人だけが放射線の班に組込まれた。その次の年にまた申請したところ、ウィルスの釜洞さんと半分宛の合成班が認可されました。1961年からは遂に組織培養研究者だけの、しかも全員助手級のメンバーから成っている綜合研究班として勝田班が発足しました。
 これらの研究は“Carcinogenesis in tissue culture"のシリーズとして今日までに28篇が発表されました。その抄録集は主な班員にはお送りしました。癌をなおすところまで行きつけなかったいま、まるで甲子園の土を拾って帰るような気持ですが、とにかくうちの班はよくやりました。また次の戦を考えましょう。

《高木報告》
 これが当班における最後の月報になると思うと感無量です。
勝田先生との出会いは昭和33年癌学会であったと思いますが、以後たえざる御指導を頂き、昭和35年からは班員の末席をけがさせて頂きました。今日まで何とか歩んで来られたのも勝田先生をはじめとして班員の皆様の御力添えがあったればこそと厚く御礼申し上げます。臨床片手間の研究を続けて参りましたが、皆様から研究に対する取組み方を学び、またそのきびしさを知ることが出来ました。今後共よろしく御願いいたします。
 2月27日に医療短大、28日、3月1日には第一内科の研究室がそれぞれ新棟へ移転しました。内科の建物は昭和47年に病棟が移転しましたが、第一内科の病棟のあとに医療短大が入り、研究室はそのまま今日まで残っていましたので、結局私はこれまで建物を移ることなく24年間過して来たことになります。すすけてはいましたが“住めば都”の半地下の研究室に別れをつげ、新しい規格化された1スパンずつの部屋に移りました。第一内科全体がこれまでのスペースの40%の場所に入ったのですからその狭さは言うに及ばず、無菌室は1.5スパンありますがクリーンベンチを6台入れて組織培養、血液、化学、遺伝、4研究室の共用となります。共用というのは便利がよいようで中々運営がむつかしく、目下使用のルールを作っているところです。近代的な設備とはいえ、ここも“現代”の象徴であり“旧きよき時代"は去った感がつよくいたします。しかし建物は如何に規格化されようと、そこで仕事をするスタッフまで規格化されるようなことがあっては困る訳で、規格をはずれたスケールの大きい人材の養成が必要と思われます。
 4月1日から大分医大の内科学講座を担当することになります。とは申しましても未だ教養部の建物しかない訳で、臨床研究棟の完成は来年2月の予定と聞いております。その間研究は第一内科で行わざるをえませんので、大分と博多を行ったり来たりの生活になりますが、兎に角細胞とのつき合いは絶対にたやさないつもりです。

《難波報告》
 とうとう最後の月報になってしまいました。昭和44年に勝田班に加えていただき、今年で丁度10年目、その間、ほんとうにいろいろ勉強させていただき感慨無量です。ほんとうに有難うございました。
 この10年間のことを振り返ってみると、私の仕事は1969〜1971の前期と1974〜1978の後期とに分れています。前期ではネズミの肝細胞の培養とその癌化が中心で、4NQO、DABなどで癌化に成功しました。後期ではヒトの細胞の化学発癌剤による仕事を始め、4NQO、Co60-γ-Raysなどで、ヒトの細胞の癌化に成功しました。
 しかし、いま、これらの仕事を回顧してみると、恥しい限りです。前半の仕事も後半の仕事もまだ片付いてないことが一杯です。ネズミの肝の仕事では、細胞の培養内癌化の有効な指標すら掴めず、勿論、肝細胞を迅速に定量的に癌化させることも出来ずじまいです。ヒト細胞の発癌の問題は、ネズミ肝細胞でと同じ困難性があると共に、さらに、ヒト細胞の培養条件の検討、Agingの問題、など解決しなければならぬ、むつかしい問題が山積しています。
 以上の様な種々の問題を、この10年間勝田班で教わったことを基礎にして、これから掘り下げてみようと考えています。

《梅田報告》
 先月の月報に感想を書いて了ったので、本月報には私の今後の研究計画を記します。
 (1)良しにつけ悪しきにつけ繊維芽細胞は悪性化すると著明な形態変化を起すことが判明してきている。この現象を指標にして今迄多くの研究がなされてきたが、発癌機構解明のためには今一歩足りない。私としては、この繊維芽細胞の系も捨て難い魅力がある。特に世にもてはやされているPientaの系を中心に研究を進める班を持たされたので、この機会も活用して、先ず実験系の洗練化、その洗練された系を使っての発癌のinitiation、promotionの関係を解明していきたいと考えている。とは言っても、実験系の洗練化のために、すなわち、技術面での改良に関して問題は山積みである。さしあたっては悪性転換実験に都合の良い細胞捜し、アッセイ系の改善が目標である。
 (2)月報7706で報告したヒトの表皮の培養がうまくいっている。遅ればせながらこの上皮細胞の同定、発癌実験を続けていきたい。ヒトの繊維芽細胞と同じように発癌剤の作用に抗するのか、今迄の上皮細胞での発癌実験の時のように悪性化の同定に苦労があるのか、これからの問題ではある。
 (3)突然変異とか、染色体異常をみる所謂遺伝毒性に関する実験は、今迄やや無節操に数多くの化合物についてただテストしてきた嫌いがある。今後は突然変異のメカニズムに焦点を合せ、哺乳類細胞での実験結果が、バクテリアで得られている常識と異る点、合う点等も浮き堀りにしながら実験を進めたい。当面はexpression timeの問題で、哺乳類動物で2gen以上必要らしい原因も追求したい。

《山田報告》
 お陰様で何んとか、今日まで当班の末席に連り仕事をさせて戴きましたことを感謝いたします。癌の問題を根本的に解決しようなどと大それた考えは持って居ませんが、せめてもう少し、癌の生物学的態度の解明、そしてその認識に、小生のやって居ります細胞電気泳動法がお役に立てばと思いましたが、ついに至らずにしまいました。
 私事にわたって恐縮ですが、思い出してみますと、小生が大学を卒業して4年間外科の修業を積み、学位論文が終って後に、吉田富三先生の下で癌の研究を始めさせて戴いたのは昭和34年でした。当時はまだまだ再び外科に戻ろうと思って居たのですが、運よくエリノア・ルーズヴェルト基金により英国のチェスターベティ癌研究所に留学することが出来たのが昭和39年の秋でした。ロンドンでは経済的にも研究の面でも、あまりにも恵まれすぎて、吉田富三先生がロンドンに来られた時「あまりにも恵まれすぎて怖い位だ」と申しあげたものでした。そしたら先生は「そんなことはない。いままで君はたくさんの努力をしたから、そのボーナスの様なものだ。けれど日本に帰ったら癌の研究をやめてはいけないぞ」と云われました。その時はっと目が覚める思いでした。「そうだ。もう外科なぞと云うまいぞ」と心にきめたのはこの時でした。その後国立がんセンターでまたまた恵まれた研究生活を送り、そしてまもなく当班に入れて戴き、山の様な御指導を戴くことになりました。もう癌の研究をやめるどころか、今後残された小生の仕事は癌の仕事しかなくなりました。けれ獨協医大に赴任してからは必ずしも思う様に仕事が出来ずにしまったことを残念に思って居ます。しかし本学も今年は卒業生が出ます際に、スタッフも充実して来ると思います。また再び癌研究に専心出来る日も、そう遠くはないと思っています。その前に当班が終ってしかうことが本当に残念です。

《乾報告》
 昭和52年度も3月を迎えました。同時に、勝田先生の御退官を期に18年間続いた勝田班も終わると云うことになりまして、培養の仲間が一年に何回も一堂に会して、討論する場がなくなることは、非常にさびしい思いが致します。
 私は班の後半の1/3余を班に入れて頂きましたが、先生にも色々お教え頂き、今日やっと細胞が培養出来る様になりました。
先月の月報と少々ダブリますが、私はこの班で、前半は主として繊維芽細胞(ゴールデンハムスター)ノMalignant transformationを色々な化学物質を使用して行なって来ました。おかげ様で、タバコタール、亜硝酸投与のTransformationの仕事は、世界で一番速いReportでした。
 後半は主として、経胎盤法を使い、Transformation、Mutationの仕事をやってまいりましたが、まだまだ未完成でやらなくてはならないことが沢山あります。この系だけは近いうちに完成させたいと思っております。
 勝田班に長い間、御世話になりまして、私がなまけ者故に収得しえなかったことに“表皮系細胞”の培養があります。これは非常に残念ですが、これで培養の仕事が全部終るわけではありませんので、これから勉強し直します。

《榊原報告》
 愈々最後の月報を書く段となり、感無量です。
病理形態学という、全く定性的な学問の巣窟から出てきた私にとって、毎月の月報書きは苦痛でしたが、それをしたことによって論文を書く際ぐっと能率が上ったように思います。誠に有難い修業をさせて頂いたと感謝して居ります。これからも月単位で実験データの整理をする習慣を続けてゆきたいと思います。
 勝田班に入れていただいた当初は、班員の諸先生方の歩んでこられた研究の道筋も判らず、自分の進むべき方向もさだかではありませんでしたが、二年経った今、それらのことがかなり明瞭になってきたように思います。これからは右顧左眄することなく、自分の仕事に打ち込みたいと考えます。
 個人的なことになりますが、私はまだ実績のなにもない医学部卒業したての頃より勝田先生に可愛がっていただき、その御恩を深く感じています。与えられた知に報いるには知を以てする以外はないでありましょう。良い仕事をして、それを勝田先生に捧げたいと思います。

《関口報告》
 最後にあたり、勝田班最後の2年間、班に加えていただき、私自身は何も貢献できませんでしたが、班員の皆様からは色々と教えていただきましたことを感謝しています。
 文集にも書きましたが、臨床家の私が組織培養に入るようになったのは、勝田先生の一言がきっかけでした。勝田研究室で伺いながら、見よう見まねでやって来て、とうとう人癌培養に深入りすることになりました。昨年から厚生省の班の御世話をする破目になって、勝田先生の班長としての御苦労がやっと分かりました。長い間、本当にありがとうございました。

2001年5月2日終了   

編集後記


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