聞き手:高岡聡子
1999年3月30日
組織培養研究会発足時の中心的研究者のお一人に、中井準之助先生がおられました。東大解剖学教室のご出身、神経細胞の培養を発表しておられ、殊に映画法を駆使しての動態観察が見事でした。当時の私の印象では、勝田先生と同世代と思えないほど、重厚な学者らしい先生でした。
中井先生にもぜひお話を伺いたいと思っておりましたとき、水沢さんを通して次のようなリクエストを頂きました。
そして早速、中井先生にお願いし、原稿をいただきました。 昭和28年渡米、テキサス大学 C.M.Pomerat 教授に組織培養、位相差顕微鏡映画を習って30年帰国、いつの頃か勝田甫さんらと相談、確か伝研の階段教室に少人数集まって組織培養の研究会をつくろうと相談した。勝田、中井、千葉の川喜田愛郎、農林省の高見丈夫、長老は京大の木村廉先生などが印象に残っている。われわれ若手が強く主張して、組織培養はあくまで手技、これを互いにくわしく討論するのが目的、研究の結果はそれぞれ学会に発表すればよい。したがってこの会は学会としない。会則をつくらず、会長、評議員などもおかない。雑誌を作らず、演題だけをのせた年報をつくり、外国のしかるべき学会に送る。こうして第一回の研究会が昭和31年にひらかれた。一題の発表30分、質疑応答30分、若い人、研究生などは音を上げてしまう。勝田さんに激しく詰め寄られて、指導教官に助けを求める若い女性研究者が印象的でった。 いつの間にか会員が増え、いろいろと様子が変わり、学会ができた。私は脱会した。 :位相差顕微鏡映画について: 昭和28年からの1年間、オブリゲーシオンの皮膚の培養(スポンサーは形成外科)による研究を終えて帰国まであと2ケ月、何をしてもよいという。その外科で焼けどの治療にタンパク分解酵素、Proteinase-Aを使っていた。この溶液をニワトリ−エンブリオのspinal gannglionに作用させたところ、神経細胞がきれいに分離された。懸滴培養したところ、1個の神経細胞から突起が伸び出した。1 frame/minute で映画に撮った、フィルムをコダックに現像にだす。数日で戻ってきた。映写したところ、教授はじめ研究室一同ワッと叫んだ。 教授はもう一年いろという。年俸を倍以上の5000ドルにしよう、という。また1週間あとに教授はAtlantic Cityの神経病理学会で特別講演をする、30分やるから君の映画をみせて講演せよと言う。飛び入り発表は大好評だった。 一個の神経細胞から繊維がのびる、成長端から伸びる filopodia は触手のように動く。神経繊維の中を顆粒や液胞が動く、axoplasma は遠心性のみに流れる(P.Weiss)という説は崩れて、両方向性の流れが証明された(1956)。 培養することが困難だった神経が分離培養で容易になり、位相差のおかげで生きたまま観察でき、微速度撮影によって動きを観察し、分析できるということは、それまでは考えられなかったことであった。充実した1年であった(1954-5)。 位相差顕微鏡は戦前、ドイツで発明され、見事な Amitosis の映画ができていた。進駐したアメリカ軍が顕微鏡を持ち帰り、Amerikan Opticus が製作した。主な研究室で使いはじめた頃に私は遭遇したことになる。 帰国後オリンパスが試作を始め、しばしばテストを依頼された。 ドイツの位相差映画は団勝麿夫人がコピーをアメリカから持ち帰り、いくつかの大学はそれを分けてもらった。今見ても立派な映画である。 オリンパスの試作品をテストしたが、従来の光源では光りが足りない。スライド・プロジェクターの光源を利用、その高さまで顕微鏡の下にドイツ語の分厚い本を置いたら高くて覗けない。裸足で机に上がって、顕微鏡を覗いているランニング姿のそのときのスナップがあるはずだ。新制度大学院1号の志水義房君撮影(信州大学名誉教授、故人)。その結果! 培養したグリア細胞が見えた、しかし見る見るうちに文字どうりのバブリング(沸騰)を起こして爆発、死んだ。 その前に。アメリカから帰ったばかりで培養室も何もない。屋上に骨晒し室がある。タイル張り、流し台もある。ただし水が出ない。志水君とバケツで水を運び上げ、一面に水をまいてホコリをしずめ、パンツ1枚で培養した(38度C)。鶏卵の殻は屋上に捨てた。三四郎池の烏が沢山来て食い散らした。 今の人には想像もつかないと思うが、培養といえば、まず滅菌。ポイ捨てのものなど何もない。シャーレ、試験管、注射器、etc,何度でも使う。一晩クローム硫酸につけて長時間水洗、乾燥、乾熱滅菌などなど気の遠くなるような仕事があった。伝研(勝田)の高岡聰子嬢、東大(中井)の川崎美子嬢の長い間のご苦労に改めて感謝したい。まだまだある。ニワトリから採血して血清つくり、ガンの腹水がよいというのでガンセンターに。顕微鏡写真の現像、焼き付け(33,000枚)、初めのころは映画も現像した、徹夜で撮ったものを何度か失敗、泣くに泣けない思いをした。しかし何といっても苦労はフォーカスのチェックである。1分1コマというような撮影に数秒ごとにボケを直す。今では考えられないだろう。蛍光顕微鏡写真は露出に20〜30秒かけて撮り終ったら細胞は黒焦げ!蛍光顕微鏡映画など夢のまた夢。 それにつけても、組織培養に technical assistance ほど大事なものはない。優れた Technician がいれば、Idea は自分が考えるから助手はいらない。それが漏れた?のか、私の講座の禄をはんだ11人は皆教授になったが、培養の手伝いをしたり、研究に培養をつかったのは志水君ひとりだった(イリノイ大学中島泰子教授は神経生理に培養を用いて活発に仕事をすすめている。のちに信州大学熱海佐保子教授も培養細胞を用いている)。 中井準之助 中井先生が顕微鏡映画撮影に取り組んでおられた同時期に、勝田先生もまた顕微鏡映画撮影のための道具作りに意欲をもやしておられました。そのころの状況がうかがえる【勝田班月報:1964年】の記事を引用します。 ☆☆☆新製品 3年がかり位で指導し、苦労してきた製品が2、3、このたび発売されることになりました。その第1は、日本光学の倒立顕微鏡です。Nikon.MD型とよび、レンズをつけて最低装備で477,600円です。すでに註文が殺到しているようですが、まず現在手に入る倒立の内では世界中で最優秀と信じます。第2は顕微鏡映画用タイマーです。これは光研社に苦心させましたが、私のつけた註文を一応みんな備えています。光源用スタビライザーを入れて30万以下ですから、これまた現在手に入る最高性能で最廉価となります。顕微鏡につける恒温箱も、ヒーターの良いのができなくて困っていましたが、こんどようやく良いのができました。光研社製ですが、±0.15℃位です。いま、これらの組合わせで毎日映画をとっています。すばらしく面白い現象がとれて悦んでいます。なお映画用の理想的な perfusion chamber も現在、高島商店で量産の準備中です。これにあわせての x40 対物レンズも日本光学で現在設計中です。long working distance です。乞御期待。高岡 |
追補: |
☆学会創設について 昭和31年9月31日(1956年)「組織培養研究会」が勝田 甫先生の座長の元に発足した。 翌年11月9日第4回大会において座長・中井先生(東大・医・解剖学教室)において研究会は「日本組織培養学会」と改称された。 |
☆2004年3月1日午後0時40分、肝細胞がんのため静岡県浜松市の病院でご逝去なさいました。享年85歳。 東大名誉教授。 東大医学部長、筑波大副学長、浜松医大学長などを務められました。 |