1. 氏名: 
関口 守正 (せきぐち もりまさ)
2. 略歴:
1) 生年月日
     
1931年4月5日 出生地 東京 本籍 埼玉県
2) 学歴 
     
1955年 東大医学部卒
3) 職歴(主なもの)
     
1956年 東大医学部外科入局
      1959年〜1992年 東大医科研 助手 講師 助教授 教授
      1963年 仏国政府給費技術留学生
      1992年 アルファ・メディック クリニック 院長
      2005年〜現在 結核予防会 新山手病院 非常勤医
            日本免疫治療学研究会 瀬田クリニック 非常勤医
            武蔵野大学看護学部 客員教授
3. 業績: 培養に関する主な業績
     共編著: 機能性細胞の分離と培養 丸善 1987年
      共編著: ヒトがん細胞株とその特性 中外医学社 1992年
      分担共著: Atlas of Human Tumor Cell Lines, Academic Press 1994
      分担共著: Human Cell Culture, Kluwer Academic Publishers 2000
4. 培養学会とのかかわり  「組織培養と私」
  本会へは組織培養研究会と称せられていた昭和30年代より参加させて頂きました。
 私は元々外科の臨床医で、組織培養の道に入りましたのには、紆余曲折がありました。私達医科研外科のグループは、腫瘍免疫をテーマにしており、抗腫瘍効果を測定するのに、標的となるヒトの癌細胞が必要になりました。同じ研究所の癌細胞研究部長の勝田甫先生に相談に参りますと、Hep#2を殖やしてみたらどうかと云うご指示を受けたのが発端でした。培養を始めてから、分らないことがあると、すぐに高岡聡子先生に伺うことができたのは幸いでした。勝田研には練習コースが設けられており、それを終了しないと入門が許されませんでした。私は病院の仕事がありましたので、夕方に時間を作って、このコースを始めましたが、なかなかはかどりませんでした。最後の教程に細胞核数算定がありましたが、うまく許容範囲に収まらず、とうとう終了しないままになりました。本来なら、勝田研に入門できない筈でした。
 勝田先生は無類の愛飲家だったことは衆知のことです。夕方になるとウイスキーの水割りを飲まれるのが日課でした。それで、お相手をする誰彼を研究室内で探されるのですが、毎回お付き合いしていては、各自の仕事が進まなくなるので、応ずる人が少なかったようです。そこで、私の所にお鉢が回ってきました。夕方5時頃になると、「関口君、一寸来ないかね」と云う電話があります。お酒のお相手とは分っているのですが、いつもお断りする訳にもいかず、何度かに一度は参上しました。私もお酒は好きな方で、飲ませて頂けるのはありがたいのですが、その後で必ずブリッジの時間になりました。私は下手なので、ヘマをして叱られました。病院の仕事が残っていて、そっと抜け出すのですが、「逃げ足速し関口カモ。追い込みに適。」と添え書きの付いた漫画(顔が私で体が馬)を書かれたことがありました。それが大傑作で、先生の稀に見る才能の豊かさに感心しました。このようにして、勝田学校夜間部に通学したせいか、いつの間にか勝田研の同窓会の一員に加えて頂けたようです。
 ヒト癌細胞の培養を手探りで始めました。ヒト癌細胞株ができるのは10%未満で、増殖がよくなるのには一年程かかる状態でした。私達外科グループが目指していたヒトでの腫瘍免疫の研究では、リンパ球の自家癌細胞に対する殺細胞性を証明しなければなりませんでした。そこで、手術で摘出された癌組織を材料として培養を行いました。手術の終了が夕方、時には夜になって、ようやく材料が届くことが多く、夜半までかかって行っていました。極めて効率の悪い仕事でした。その頃から、培養癌細胞の抗原性について論文が出始めました。癌細胞の抗原だと思っていたのは、実は培養に用いた血清成分が細胞に取り込まれて発現していると云う論説でした。従って、私達のグループが目指していた抗腫瘍性の検出には、培養癌細胞は役立たないことになりました。
 一方、動物愛護の観点からは、動物を犠牲にしない実験系の採用が叫ばれるようにはりました。更に、厚生省の対癌10カ年計画がスタートし、がんセンター病理部長であった大星章一先生(後、新潟大学教授、故人)が班長になって、ヒト癌細胞の実験系を作るプロジェクトが発足しました。大星先生は、「兎に角ヒト癌細胞株を作れ。そうすれば、それを用いた研究が促進される。」と云う信念でした。私はやっと班友のはしくれにして頂いたのでしたが、幸運にも、間もなく班員に格上げして頂きました。大星先生も胃癌の培養をしておられて、私がヒト印環細胞胃癌の培養に初めて成功したからだと思います。この細胞株(KATOIII)はなかなかユニークでした。印環細胞癌細胞の核の偏在は、従来、細胞内の粘液物質が核を圧排している結果と考えられていましたが、走査伝顕像でみると、細胞の一側に大きな、深い陥凹があって、そのために核が偏在することが分りました。がんセンターの寺田雅昭先生(後、総長)はこの細胞から、低分化胃癌に特有なK-sam遺伝子を発見されました。他の研究者らはp-53欠損も報告しましたし、某製薬企業では、抗CEA抗体を作るための標準抗原抽出に用いていました。私の知らないうちに各方面に渡ったらしく、後でATCCのカタログに収録されているのを知って驚きました。
 国立小児病院と小児癌の協同研究を始めてからは、小児癌の材料が多くなり、神経芽細胞腫、胎児性癌、筋肉腫などの培養株が生まれました。神経芽細胞腫株は神経細胞の代替として、生化学方面で用いられたり、胎児性癌株はTNFのバイオアッセイに利用され、また筋肉腫細胞株はプラスミノーゲン.アクチベーターの研究に役立ちました。
 大星先生の後の班長を仰せつかりましたが、その班で日本独自のT細胞白血病の研究に携わった、日沼頼夫先生(熊本大学教授、後、京都大学ウイルス研所長)はじめ優れた研究者グループと知り合えたことは幸でした。私達が初めに意図したのとは違った方面の研究に細胞株が利用されたのは意外でしたが、かつて大星先生が云われたように、癌研究にいささかでも貢献できたことを嬉しく思っています。
 私は組織培養を始める前は骨髄移植や腎移植を行っていました。組織培養の偉大な先覚者アレキシス.カレルが臓器移植と組織培養を相次いで行ったことは広く知られていますが、きしくも同じ過程を歩んだことになります。只今は、ラボ.ワークからはすっかり離れておりますが、細胞培養で活性化した自家リンパ球を用いた癌免疫療法を行っております。
 私のささやかな仕事に対して栄誉を与えて下さった日本組織培養学会に感謝いたします。
5. 学会
 日本癌学会名誉会員
 日仏医学会理事