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まえがき

【勝田班月報のこと】

 勝田班は、文部省から科学研究費の支給を受け、「組織培養による発癌機構の研究」をテーマとした研究班でした。1960年から1977年まで、籍をおいた研究者は38人、専門分野は病理学、生化学、遺伝学、免疫学、分子生物学、発生学と多彩でした。

 組織培養(試験管内)で正常組織由来細胞を癌化させるという試みは、既に1940年にアール博士一門によって始められていました。マウスの細胞をメチルコランスレン処理して悪性化に成功した実験で、世界最古の組織培養株細胞Lが樹立されていました。しかし同時に、発癌剤処理を受けなかった対照群の細胞もまた悪性化してしまったという、未だに解決されていない問題も提議されていました。

 第二次世界大戦後、新進気鋭の組織培養研究者たちが研究班を組織しての、難敵「癌」撲滅の試みには、アール博士一門の研究にならってではあるが、発癌実験系として確立したいという意図がありました。アール博士一門は、培養内で細胞が何故“正常性”を維持できないかという疑問の解決のために、培地に添加される血清、組織からの細胞分散方法、実験中の照明、培養環境などの条件を逐一検討しつつも結論には達していませんでした。 当時、日本の癌研究分野では、佐々木先生一門がアゾ色素によるラット腹水肝癌の研究に成功しており、その腹水肝癌系は制癌剤のスクリーニングに威力を発揮していました。 勝田班長の初期の計画はアゾ色素による動物内肝癌発生にならって、培養内では増殖しないラット肝細胞にアゾ色素を与えて増殖誘導を試みることでした。そして、その試みは1962年に成功しています。しかし、増殖誘導によって得られた肝臓由来の増殖細胞集団を移植されたラットは腫瘍死しませんでした。組織培養環境の中で旺盛な増殖を継続できることと、生体内で癌細胞として増殖することとは、別次元の問題でした。 

 その后、研究班として精力的に多くの実験が重ねられました。使用した動物は、ラット、マウス、ハムスター、チャイニーズハムスター、ウサギ、サル、ムンチャク、ツパイア、ヒトなど。試みた発癌剤や変異剤は、アゾ色素、メチールコランスレン、アクチノマイシン、タバコタール、ホルモン、サリドマイド、4NQOMNNGDENEMSなどなど。そして、多様な組み合わせの中で、ハムスター胎児細胞と4NQO、ラット肝由来細胞とアゾ色素、ラット胸腺細胞とMNNG、ラット肝由来細胞とDEN、などからは変異細胞が得られました。若い健康な動物から初代培養を成功させ、適切な条件下に、発癌剤や変異剤で処理すれば、組織培養内で変異した細胞集団が得られることは判りました。

 しかし、アール博士一門と同様に「培養細胞の自然悪性化」の問題は解決できませんでした。発癌剤処理した細胞系が動物を腫瘍死させたという成功に、班員こぞって祝杯を挙げたところ、数ケ月後には、処理していない対照群の細胞系を移植した動物もまた腫瘍死してしまったという悲報が続きました。マウスの胸腺細胞を通常の方法で1ケ月培養した無処理系を復元接種したところ、マウスは腫瘍死し、その腫瘍は動物継代が可能だったという報告さえありました。

 動物に発癌剤を与えて癌を発生させる実験は、癌研究の分野では充分に確立された実験手段であり、多く活用されて来ました。しかし、動物実験では、動物体内での細胞レベルの変化を刻々と観察することは、容易ではありません。そこで、組織培養という手段を活かして、細胞レベルの変化を顕微鏡下に観察すれば、発癌機構の解明に役に立つであろうとの勝田班長の考えでした。しかし、生体内で癌化が発見されるのは、癌細胞が増殖して集団を作り病的な症状を呈してからです。顕微鏡下に1個の細胞の悪性変化を発見することは殆ど不可能でした。病理組織学の力を借りれば、細胞形態の変化や酵素活性の変遷を知ることは出来ます。勝田班では、試験管内での細胞の悪性化の検出に、悪戦苦闘しました。形態変化をみるにも、単に核や細胞質の形だけでなく、培養内特有の接触抑制やクリスクロスといった変化を捕らえ、顕微鏡映画法を駆使して細胞動態の変化を観察しました。 癌が宿主を死に至らしめることを考えると、試験管の中で変化した細胞が、究極にはもとの宿主を殺すことまで見届けねばなりません。そこで又問題が起こりました。試験管の中では、形態的変化が認められ、活発に増殖し、染色体構成にも変異があって、癌化したかに思われる細胞集団を、宿主の動物が癌として受け付けない結果を数多く経験しました。 「試験管内で増殖を続ける細胞たちは、“さまよえるオランダ人”になってしまって、自分の母体を忘れてしまったのではなかろうか」という議論もなされました。始めは移植部位をなるべく免疫反応の弱いところとして脳内接種や、幼若動物への移植が試みられ、やがて積極的に抗リンパ球血清で処理したハムスターのチークポーチへの移植が実用化されました。又、ヌードマウスが実験動物として登場してからは、培養細胞の復元接種(腫瘍性の確認)にはヌードマウスが一人舞台のように使われてきていますが、免疫不全の動物でしか腫瘤を造れない細胞を悪性細胞と言えるのかという議論もありました。

 試験管内悪性転換の研究としては、勝田班の化学発癌剤によるものより先行していた、癌ウィルスによる悪性転換の分野があります。癌ウィルスを使った場合、変異細胞はウィルスの一部を細胞内に爪痕として残します。それは実験系として、非常に有利なことでした。反面、化学発癌剤による変異には、明らかな爪痕が残らないことが不利でした。変異剤で処理し、その後かなり長期間培養を続けるのですから、その過程で変異が固定されたのか、あるいは処理による細胞の選別が起こったのかが議論されました。悪性細胞は寒天内でコロニーを作るが正常細胞はコロニーを作れないという軟寒天実験法、少数細胞を播き込むコロニー法で悪性細胞を選別する方法、細胞荷電の変化を利用して悪性細胞を選別しようとする細胞電気泳動法など、多くの方法があみだされましたが、ウィルス発癌の爪痕に匹敵するマーカーは、見つかりませんでした。

 「癌撲滅」という大目標からみると、勝田班は成功したとはいえませんが、組織培養技術の開発には大いに貢献しています。又、試行錯誤し、紆余曲折した長い道のりの中で、あるときは病理学者を、あるときは生化学者を、また免疫学、発生学の立場からと、班員を組み替えてきたことで、広い分野の研究者たちの交流もはかられました。又、実験途上で樹立された組織培養の細胞系も数多くあります。私の手元に残っている無蛋白無脂質完全合成培地内で無限(30年以上も)に増殖を続ける15系もの細胞も、この班研究の遺産です。

 多細胞生物を構成している細胞集団を、試験管内という人工的な環境に移すと何が起こるのか。彼らは分裂増殖して子孫を残してはいますけれど、もし人間が世話しなかったら、完全に死滅する運命の集団でしかありません。

 『培養環境では、生体内と何が異なっているのか。』

 1.実験者が設定している培養環境は、温度や培地は出来るだけ母体に近い条件が使われています。母体の体温、血清や体液を参考にして処方された培地、pHなどが常識になっています。しかし、培地には殆ど牛胎児血清が添加されていて、それは牛以外の培養細胞にとっては異種蛋白です。

 2.多くの場合、液体培地が使われており、培養細胞は液体の底に沈んでいます。それはかなり嫌気的環境です。培地を潅流させることや、廻転培養によって空気層と接触させる培養法なども考えられていました。

 3.実験目的は、生体内の複雑な相互関係から解き放した特定の細胞集団について調べよう、ということですから、多細胞間の相互作用は希薄になっています。またローズ博士の論のように細胞自身の代謝産物が培地交換によって増減することがあります。(ローズ博士のチャンバーはそのことを考慮に入れて作られています。)

 4.正常な生体内では、すべての細胞がそれぞれの役割を担っており、増殖度に関しても様々です。しかし、培養細胞を実験に用いる際には、常に増殖することがを要求されてきました。大腸菌と同等に実験に供するためには、より早く増殖するような実験条件が工夫されてきました。

 『培養された細胞では、何か変わって何が保存されているのか。』

 長い間、培養細胞と付き合ってきて、不思議に思われるのは、染色体変異です。生物体では、個体としても種としても、染色体は安定したものだという認識があります。でも現在の培養条件では、染色体変異は珍しくありません。ヒトやニワトリのように二倍体が頑固に維持されて、短期間に老化現象を起こしてしまうものもありますが、ラットやマウスでは容易に染色体変異が起こります。培養内での変異に一定の法則はないようです。私の経験では、ラットやマウスの細胞系の変異は、すべて初期の23年の間に起こり、その後の何10年という年月(これは凍結保存せずに、増殖を維持してきた年月です)殆ど染色体上の変化は認めらませんでした。

 形態については、あまり変化しないようです。いわゆる上皮様形態、繊維芽細胞様形態、球形、といった特徴を多くの細胞系が維持しています。また細胞同士の接着性と、培養容器壁への接着性も安定しています。

 培養細胞の増殖性については、同一培養条件下ならかなり安定したものであるとの結論を得ています。私のとっている同一の培養条件とは、血清(いわゆる増殖因子も)は添加しない、炭酸ガス培養器は使わない(閉鎖系)、継代に酵素は使わない(ラバークリーナー使用)、定期的な培地交換と細胞密度稀釋(継代)を厳守するものです。  

 この条件下で、培地のグルコースをガラクトースに変えただけで、殆どの細胞系の染色体数が増加すること、神経腫瘍由来系の多くは増殖できないこと、ある系では容器壁への接着性が変化することなどが判っています。そのような変化が培養細胞の悪性化とどのように関わっているのかは、まだ調べておりません。 

 培養細胞が“正常性”を維持できる培養条件の設定はまだまだ前途多難に思われます。

                 (高岡記:高木良三郎先生に検閲して戴きました)